目前に迫った野口英世ロス 新紙幣発行も人間の五千円札への執着はなしか

 野口英世ロスは目前である。人間はいつも千円札の肖像画に思い入れがある。夏目漱石肖像画には並々ならぬ千円札としての執着が人間には刷り込まれている。五千円札は実はどうでも良い。今回はここに福沢諭吉ロスも襲ってくるはずである。五千円札は割とどうでも良いのだ。人間は千円札への執着がある。千円札が必然的に財布に多く入っている確率が高いからなのか、はたまた子供の頃に親しみが最も深いお札だからなのか。五千円札はどうでもよく、めったに出会うこともない。めったに出会わない二千円札の方がむしろ執着が深いのではないか。五千円札の肖像画には申し訳ないが執着心が全く湧かないのである。私は恐らく世の中の平均的な大人達より福沢諭吉ロスには見舞われないであろう。福沢諭吉を手にしたことが数えるぐらいしかないからである。一度に手にした最大の枚数は10ぐらいであろう。しかもずっと財布に入れている訳でもなく大抵は銀行の中に入り数字として口座に存在するだけだ。大金持ちであれば多少は多く見るであろうが、福沢諭吉肖像画を見ることは稀である。ゆえに千円札の肖像画には並々ならぬ執着があるのである。夏目漱石肖像画は多大な宣伝となり人間のこころに大きな執着心を刷り込んできた。夏目漱石の顔のデザインが人間のこころに馴染むことによって夏目漱石を意識して生きているのが人間だ。夏目漱石の書いたものを読んだ人も多いであろう。そしてもう野口英世の寝ぐせを見ることも少なくなってくるであろう。しかし我々人間の心の中には野口英世の痕跡がいつまでも残るであろうことは皆も悟っている事実であろう。野口英世は電気を発明した人だと私は思っていたがどうやら違うようだ。何をした人か分からないが顔のデザインだけは子供のころから知っている。ゆえに千円札となった時の違和感はなく、千円札に相応しい顔のデザインであった。今では夏目漱石と肩を並べる千円札としての執着を人間に刷り込んだ顔としてその肖像画は人間の心の中に植え付けられている。五千円札はそこまでではない。それでも人間は五千円札の奥ゆかしさに生かされているのである。五千円札は中間的な役割を果たしている。中間管理職と同じである。千円札の多さを緩和してくれて来たのである。一万円札では額が大きすぎるお年玉も五千円札では丁度よく、お年玉が1枚であることでその貫禄も維持してくれて来たのである。そしてその役割は新紙幣となっても受け継がれる。人々にその肖像画への執着が全くと言ってなかったとしても、その存在は確かに奥ゆかしく存在し続けるのである。新渡戸稲造肖像画にはある種のレア感が存在するようにも思える。レアカードである。五千円札には五千円札の奥ゆかしさが確かに存在するのである。それはこれからも変わらないであろう。これからも我々と五千円札の間には確かに奥ゆかしさが存在し続けるのだ。